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幕二十四 存在しなかった者

last update publish date: 2026-06-06 07:45:48

 まず、記録が消された。

 任務報告ファイル。監視映像。通話ログ。

 それらはすべて“処理中”のフラグを立てられたまま、端末の奥へ沈められた。

 次に、命令が消された。

 ゼロセブン処理の命令書――コードA2。

 その発行記録は削除され、関連する署名と承認履歴もすべて白紙化された。

 誰も異を唱えなかった。

 文書管理官は端末の指示どおりにボタンを押し、次の処理へと進んでいった。

 最後に、名前が消された。

 影衛・第四実行班“ゼロフォー”。

 人事台帳からコードが消え、配属履歴が白紙になった。

 識別記録は《N=0》という番号へ再構成された。

 それは、“存在しなかった者”として処理されたことを意味していた。

 ある者は言った。

「……空席ができたな」と。

 ある者は何も言わず、ファイルの表紙を伏せて引き出しにしまった。

 表紙には何も書かれていなかった。

 だが、誰もが内容を知っていた。

 アラーナ=ゼロフォーの名は、どの報告書にも残らなかった。

 誰も呼ばず、誰も追わず、ただ静かに“記録”だけが消えていった。

 名が消されれば、罪にもならない。

 罪がなければ、誰も裁かず、誰も
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  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕三十二 死神の仕事

     石の階段を下りるたびに、空気が冷たさを増していく。 灯りもなく、声もない。ルメアの地下に広がる“沈黙の迷路”――その最深に、アラーナは足を踏み入れた。 やがて現れるのは、何十という金属製の抽斗(ひきだし)が並ぶ空間。 《オーケストラ》と呼ばれるこの地下契約所には、名札も案内もない。 だが、彼女の足取りには迷いがなかった。 一つの抽斗が、すでに開いていた。 中には、赤い封蝋袋。小ぶりの布に施された五線譜の刻印――《オーケストラ》所属の証。 アラーナは、何も言わずにそれを手に取る。 封蝋を割ると、中には銀貨一〇〇枚相当の契約証と、わずかな記述が記されていた。> 処理対象:カリス=ベルグラード(元王国軍中尉) > 処理形式:即時対応/証拠提出不要 > 報酬額:契約等級S 先払い完了 名前以外に依頼人の記録はない。 だが、アラーナにとってはそれで充分だった。 小さく息を吐き、腰の《ルジェ=ノワール》に指先を添える。 その刃は、まだ沈黙を守っている。 ただし、それは“刃を抜く理由”を得たということだった。 アラーナは、契約証を抽斗の奥に戻す。 そして、金属台の隅にある無音の鈴に、柄の底を軽く触れさせた。 カン―― 乾いた音が、空間に反響する。 それが、沈黙の死神が動き出す合図だった。 倉庫街は、沈黙街のさらに外れにある。 半壊した建物の奥、ひときわ広い空間の中央に、ひとりの男が立っていた。 カリス=ベルグラード。 元・王国軍所属。記録上は死んだはずの兵士。「……やっぱり来たな」 アラーナは返さない。 ただ、ゆっくりと歩を進める。「ここまでだってのは、分かってたさ。 でも、逃げる気にはなれなかった。……理由は、聞かねえよな?」 男は自嘲気味に笑った。 そして、少しだけ顔を上げる。「ずっと名を偽って生きてきた。 でもさ――死ぬときくらい、本当の名で終わりたかった」 静かに目を閉じ、言葉を紡ぐ。「……カリス=ベルグラード。それが、俺だ」 その瞬間、アラーナの手が柄に触れた――が。 刃を抜くまでの動作が、わずかに遅れた。 迷ったのではない。 だが、男の名が静かに空気に滲んだその一瞬―― アラーナの中で、何かがふっと揺れた。 “名を告げる者”を前に、名も声も持たぬ自分が、刃を向けようとしている。

  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕三十一 記憶の欠片

     部屋の灯りは落としてあった。 窓の外に、夜の街がある。けれど、アラーナの視線はそのどこにも向いていなかった。 壁に背を預け、ソファに深く腰を下ろしている。 目は閉じていたが、眠ってはいない。呼吸は浅く、指先はわずかに膝をつまんでいた。 ――子どもたちの歌が、まだ耳に残っている。 今夜、通りすがりに聞いた声。 それは、ただの遊びに見えた。 けれど―― なぜだろう。 あれを聞いたとき、心の奥に、何かがざらついた。「……女神、ね」 呟いた自分の声に、自分自身がわずかに戸惑った。 目を閉じたまま、思考が沈んでいく。 深く、冷たい水の底へ。 ――手を引かれていた。 かすかな記憶だ。誰の手かもわからない。 でも、温かかった気がする。 夜。毛布。誰かがそっとかけてくれた。 眠っているふりをしていたけれど、本当は起きていた。 呼ばれるのを、待っていた。 フェイが、昔こんなふうに尋ねたことがある。 「ねえ、アラーナって、本当の名前なの?」 そのとき彼女は、こう答えた。 「わからない。でも、そう呼ばれたから……それでいいと思ってる」 あのとき、自分は何を思っていたのだろう。 思い出そうとしても、記憶の中身は霞んでいた。 けれど、そのやりとりだけは、確かにあったとわかる。 そのあと――誰かが、そっと笑った。「名前はね、呼んでくれた人がいれば、それで十分なんだよ」 今度は、大人の声。 女の人。優しくて、揺らがなくて、どこか、遠くを見ているような響き。 ……あれは、ステラ院長だった。 アラーナは、目を開けた。 夜は変わっていない。 けれど、胸の奥が、少しだけ、熱かった。 ――名前。 誰かが、自分を呼んだ気がする。 けれど、顔も、声も、思い出せない。 名前すら、わからない。 それでも、自分はたしかに、“誰かに呼ばれていた”。 手が、無意識に胸元に触れた。 冷たい布地の下で、脈が、わずかに速まっている。「……違う。“ない”んじゃなくて、見ないようにしてただけ」 アラーナは、そう呟いた。 記録はない。記憶もない。 でも、確かにあった――“声”が、自分を呼んだ夜が。 言葉にならないまま、時間が過ぎていく。 アラーナは、そのままソファに身を預けた。 閉じたまぶたの裏に、名も知らない“誰か”の手の感触だけ

  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕三十 祈りの声

     雨はとうに止んでいた。 けれど、ルメアの石畳はまだ濡れていて、踏みしめるたびにかすかな音がした。 硬質なピンヒールが、その音を縫うように静かに響く。 黒いロングコートの裾が、風のない夜に揺れていた。 アラーナ・ノクターン―― 今、この街でその名を口にする者はいない。 地下ギルド《オーケストラ》の帳簿には、ただ一行だけ、担当者として“死神”の記載があるだけだった。 それで、充分だった。 依頼はすべて《オーケストラ》を通す。 署名のない紙片、報酬の明記された契約、対象の記録。 そこに相応の金が支払われていれば――彼女は動く。 祈りでは刃を抜かない。 動くのは、対価が“死”に値すると彼女自身が認めたときだけだった。 一年。 セレスタ・ホームを後にした日から、ちょうどそれだけの時が過ぎていた。 彼女は手を合わせ、ひとつずつ土をかぶせ、最後に全員の名を心に刻んだ。 誰にも名を呼ばれなかった子どもたちの、無言の供養。 それは記録されない葬送だったが、たしかに、祈りのかたちだった。 路地裏の奥から、声が聞こえた。 ――笑い声? 違う。歌だった。 子どもたちの、どこかおかしな節回しのわらべ歌。「めがみさま、めがみさま」「くびだけでいいの。なまえはいらない」「あのひとのこえ、もう ききたくないから」 アラーナの足が止まる。 振り向かない。ただ、耳だけがそちらに向いた。 ――あの夜、フェイが聞かせてくれた祈りに似ている。 誰かの名前を出すのが怖くて、ただ“消えてほしい”と願う――それが、あの歌のかたちだった。 子どもたちは、それを遊びに変えていた。 遊びのふりをして、祈っていた。 その路地を曲がらずに、彼女はそのまま歩き出そうとした。 だが、壁の一枚に貼られた紙片が、目に入った。 濡れて破れかけた、小さな、子どもの手紙。 ――『あの人の名前を消してください。声を聴きたくないの』 指先がわずかに動いた。 けれど、触れなかった。 これは依頼ではない。 対価もない。記録もない。署名も、保証も、ない。 これはただの――祈りだ。「……私は、死神だ」 呟いた声は、誰にも届かない。 けれど、その声は彼女の中にだけは、深く、冷たく沈んでいった。 再び歩き出す。 雨音はない。子どもたちの歌も、遠ざかっていく。 

  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕二十九 アラーナ・ノクターン

     風は止んでいた。 熱も煙も、すでに夜の静けさに吸われていた。 墓の前に、アラーナは立ち尽くしていた。 昼間の土が冷え、足元を沈める。靴の裏に、わずかに湿り気が残っているのを感じる。 《ルジェ・ノワール》はまだ解放されたまま、院長ステラの墓標に立てかけられていた。 漆黒の柄と弧を描く刃が、月の光に濡れて淡く光っていた。 何も考えていないつもりだった。 けれど、思考の隙間から、何度も呼びかける声が蘇る。 フェイ。リオ。ナナ。 あの夜、戻らなければよかったのかもしれない。 自分がこの場所に帰ったせいで、あの子たちは巻き込まれた。 穏やかに続いていた日々に、壊れた影を引き込んでしまった。 “死神”は、最初から誰のそばにもいてはいけなかった。 アラーナは、ひとつだけ小さな布の欠片を拾っていた。 あの日、リオが巻いていた、染みのついた赤い腕布。 それをポケットに入れたまま、ずっと握っていたことに、今になって気づく。 遠くで、鳥が一羽だけ鳴いた。 そしてまた、夜がすべてをのみ込んだ。 「……名前なんて、もういらない」 かすれるような声がこぼれた。 それは、願いでも拒絶でもなく――ただの独白だった。 ステラの言葉が、ふいに胸の奥で揺れた。 『ノクターン家はね、ずっと記録を守る家だったの。でも、それを武器にすることだけは、どうしても受け入れなかった。名前じゃない、“記すこと”と“守ること”の意味を、最後まで信じた一族だった』 アラーナの視線が落ちる。 焼け焦げた地面の下には、かつてこの家にいた人々の暮らしがあった。 祈りのように、積み重ねられていた日々が。 ――王国にとって、記録はただの兵器だった。 けれどノクターン家は、それを“語るため”に遺し、“壊さないため”に守った。 それが粛清された理由。 老騎士が命を賭して守ったもの。 ステラが探し出し、手渡してくれた真実。 そして――自分が、ずっと忘れていたこと。 アラーナは目を閉じた。 記録も記憶も燃えてしまったこの場所で、 “受け継いだはずのもの”が、まだ胸の奥に残っている気がした。 「私は……アラーナ・ノクターン……」 その声には、震えもなければ確信もなかった。 けれど、それは音として、静かに朝の空気に滲んでいった。 王都の地下、記録処理局。 魔術式の

  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕二十八 その気配は、遠ざかるはずだった

     数日が経っていた。 あの日、空気の底に沈んでいたような“異物の気配”は、それきり現れることはなかった。 けれど、アラーナの中には、拭いきれないざらつきが残っていた。 セレスタ・ホームの暮らしは、変わらず穏やかに流れていた。 子どもたちは外で鬼ごっこをし、ミナは新しい歌を覚え、リオは半分焦げたパンを得意げに差し出した。 笑い声は絶えず、陽射しは暖かく、薪の煙はまっすぐ空にのぼっていた。 それでもアラーナは、ひとりだけ違っていた。 朝の草木を踏む音がわずかに軽いこと。 物陰に消えた鳥の群れが戻ってこないこと。 いつも吠えていた犬が、門の前でじっと沈黙していたこと。 そのすべてを、彼女は“気づかないふり”では済ませられなかった。 ある朝、ナナが声をかけてきた。「アラーナ、ごめん。今日はお願いしてもいい?」 手には、いつもの買い出し袋。 ナナは少し困ったように笑って続けた。「リオがちょっと熱っぽくて……私が側にいようと思って」 アラーナは無言のままうなずいた。 袋を受け取る彼女の動きに変わりはない。 ナナはその様子に、少しだけ申し訳なさそうな顔をして、言葉を添えた。「……ごめんね。ほんとは、私が行くべきなんだけど」  買い出しの帰り道、アラーナは丘のふもとを抜ける小道を歩いていた。 草花の香り、鳥の声――いつもの風景。けれど、それはあまりにも“整いすぎて”いた。 ――違う。 空気が、冷たい。 風が止まっているのに、肌をなでる感触がある。 喉の奥を、鋭い違和感が刺した。 それは声にならないまま、全身を貫いた。 ――何かが、壊れている。 その瞬間だった。 「――ッ!」 爆音。 山裾の向こう、セレスタ・ホームの方向から、轟音が空を裂いた。 炎のにおい。煙が、木々の向こうに立ち上る。 視界に赤が混ざるだけで、全身の血が逆流するような錯覚。 アラーナの足が止まったのは、一瞬。 次の瞬間には、腰の背に手を伸ばしていた。 「コード開放――ヴェルサ・ファタール」 小さく詠んだ声とともに、手にした小鎌が光を帯びる。 宙へと投げられたそれは、黒煙を巻きながら空を裂き、巨大な刃へと変貌した。 ルジェ・ノワール――死神の鎌。 アラーナはそれを背に、音をも置き去りにする勢いで駆け出した。 足音は土を穿ち、空気が裂

  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕二十七 帰る場所だったはずなのに

     穏やかな日が、いくつか続いた。 セレスタ・ホームの朝は早い。 薪を割る音、鍋の湯気、子どもたちのはしゃぎ声――そのひとつひとつが、アラーナにとっては異世界のようだった。 けれど、彼女はその日常の輪に、少しずつ、入り込んでいた。 朝食前の仕込みで、リオと並んで薪を運び、 針仕事の時間にはナナの手元をじっと見て、見よう見まねで糸を通す。 ミナの髪を結いながら、どんな言葉をかけるべきかわからずに、ただ静かに手を動かした。 子どもたちの声が響くたびに、アラーナのまなざしはわずかに揺れた。 彼女の中で、何かが少しずつ解けはじめていた。 そんなある昼下がりのこと。 フェイが古本を運んでいると、アラーナがそれを無言で手伝い始めた。 彼女は背表紙をなぞるように見て、整然と並べていく。 まるでその静けさが心地よいというように、子どもたちも一緒に並べはじめた。 並べ終えた本棚の前で、ミナがぽつりとつぶやいた。「……アラーナって、本とか読むの?」 アラーナは少しだけ首をかしげる。「読むこともある」 それだけだった。けれど、ミナは笑った。「じゃあ、今度一緒に読んで」 アラーナは何も返さなかった。けれど、その横顔に、ほんのわずかな、柔らかい影が差した。 その様子を見たリオが、パンを焼いていたナナのところに顔を寄せる。「なあナナ……今、見たか? アラーナ、笑ってたぞ」 リオは声をひそめながら、少しだけ得意げにささやく。「……あの感じ、なんか昔の空気に戻ったみたいだったな」 ナナがそっと笑い返す。 少し離れた場所で、その雰囲気を感じ取ったアラーナは、ふと視線を窓のほうへ逸らした。 けれど、その動きには、もはやぎこちなさはなかった。 その夜。 すべてが静まり返った廊下を、アラーナはひとりで歩いていた。 何かに呼ばれたわけでもない。ただ、眠りの中に潜む異物を、本能が感じ取っていた。 廊下を抜け、玄関に近づいたとき、風もないのに空気が少しだけ冷たく感じられた。 扉が、ほんのわずかに開いていた。音もなく、わずかな隙間が、そこにあった。 アラーナは扉に手をかけ、外を見やる。 足音も、人の姿も、何もなかった。 ただ、踏みしめられた土だけが、微かに形を変えていた。 “誰か”がいた。 けれど、それは夜気に紛れるように消えていた。 翌日

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